横浜市青葉区たちばな台病院・たちばな台クリニック

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このまちで安心して生きるために。三代にわたり受け継がれた、たちばな台病院の思い

このまちで安心して生きるために。三代にわたり受け継がれた、たちばな台病院の思い

山を切り開き、まちの未来をつくる

たちばな台病院が開院したのは1983年。現在、病院や住宅、商店が並ぶこの地域も、かつては一面に山が広がる場所だったという。

「前も裏も山でした」

そう振り返るのは、飯島幹雄さんの奥さまとお子さんである。今回、たちばな台病院の原点をたどるため、創業家である飯島家がこの地域とどのように関わり、病院にどのような思いを託してきたのかを伺った。

この地域は、区画整理をきっかけに大きく姿を変えていった。飯島家は地域の地主として、東急とも関わりながら、まちの発展に深く携わってきた。飯島久衛さんは、区画整理の役員も務め、地域のこれからを考えながら行動する人だったという。

山を切り開き、テニスコートをつくる。地域に人が集まる場所をつくる。通り沿いには飲食店を誘致し、暮らしの利便性を高める。そうした一つひとつの取り組みは、単なる土地活用ではなかった。

そこにあったのは、「この地域をよくしたい」「ここに暮らす人たちが安心して過ごせるまちにしたい」という思いだった

たちばな台病院も、その延長線上に生まれた。

病院は、医療機関として突然つくられたものではない。まちが生まれ、人が暮らし、家族が増え、年を重ねていく。その地域にとって必要なものとして、病院が求められていったのである。

「困らないように」から始まった病院

病院をつくる大きなきっかけの一つには、久衛さん自身の経験があった。

近くに病院がなく、病気になった時に困った。自分がそのような思いをしたからこそ、同じ地域に暮らす人たちには同じ思いをさせたくない。ここに住む人たちが、病気になっても安心して過ごせるようにしたい。地域の人が困らないように、身近に相談できる病院が必要だ。

その思いが、たちばな台病院の原点となった。

久衛さんは医師ではない。農家の家に生まれ、地域の中で暮らし、地域の変化を見つめてきた人だった。その久衛さんが病院の必要性を考え、アイディアを出し、そしてその思いを形にしていったのが、息子である飯島幹雄さんだった。

開院までの道のりは、決して平坦なものではなかった。医師ではない人が病院をつくるということには、周囲から厳しい声が寄せられることもあったという。それでも、久衛さんと幹雄さんは「地域に病院が必要だ」という思いを曲げなかった。

「言われれば言われるほど、やるんだという気持ちが強くなっていたようです」

そう語るご家族の言葉からは、強い覚悟が伝わってくる。

久衛さんが地域の未来を考え、幹雄さんがそれを現実の形にしていく。そこには、昔気質ともいえる義理人情と、地域のために必要だと思ったことを実行に移す力があった。

もちろん、病院をつくり、守り続けることは簡単なことではなかったはずだ。資金面でも、経営面でも、大変なことは数多くあったに違いない。それでも、ご家族の記憶の中で、二人が「大変だ」と口にした印象はあまりないという。

むしろ、地域のために動くことそのものが、二人にとってのやりがいであり、生きがいだったのかもしれない。

 

地元のために、形を変えながら

たちばな台病院は、地域のニーズに合わせて少しずつ形を変えてきた。

開院後には管理棟を整備し、増築を行い、その後クリニックも開設した。介護保険制度が始まった頃には、デイサービスや訪問サービスにも取り組んでいたという。制度が整う前から、患者さんや地域の人たちの必要に応じて、訪問診療の先駆けのようなことにも取り組んでいた。

そこにあったのは、「制度があるからやる」という発想ではない。

困っている人がいる。地域に必要としている人がいる。だから応える。
その時々の状況に合わせて、地域の人が困らないように、地域の人が喜ぶように、病院の形を変えながら歩んできたのである。

飯島家にとって、「地元のため」という思いは、病院の中だけにとどまるものではなかった。

買い物一つをとっても、地域の商店街でお金を使う。地域にお金が落ち、地域が潤うように行動する。仕事だけでも忙しい中で、ボランティア活動や子どもたちのための活動にも熱心に取り組んでいた。

地域の祭りや子どもたちの活動に関わることも、医療と同じように大切な地域貢献だった。病院を運営することも、商店街で買い物をすることも、子どもたちのために動くことも、根底ではすべてつながっていた。

それは、この地域で暮らす人たちが安心して生きていけるようにするための行動だった。

その歩みを、幹雄さんの奥さまはそばで支えてきた。久衛さんと幹雄さんの大きな決断や行動を、時にはハラハラしながら、それでも見守り続けてきたという。

地域のために動く二人の背中を見て育った娘さんもまた、その思いを自然と受け取っていった。祖父と父が、いつも地域のために動いている。その姿を見ながら、自分もまた、この地域のために動くことを託された使命のように感じていたという。

久衛さんから幹雄さんへ。
幹雄さんから家族へ。
そして、地域へ。

たちばな台病院の思いは、三代にわたり受け継がれてきた。

原点を、今の時代につなぐ

久衛さんも、幹雄さんも、最期は自分たちがつくった病院で看取られたという。

自分たちが「地域の人が安心して過ごせるように」と願ってつくった場所で、自分たち自身もまた安心して最期の時を迎えることができた。そのことをご家族は、「本当に病院をつくってよかったと思っているのではないか」と語る。

この言葉には、たちばな台病院の原点が凝縮されている。

病院は、病気を治すためだけの場所ではない。困った時に頼れる場所であり、年を重ねても、病気になっても、このまちで安心して生きていくための支えである。久衛さんと幹雄さんがつくろうとしたのは、まさにそのような場所だった。

一方で、時代は大きく変わった。

かつてのように、個人の覚悟や私財、家族の支えだけで地域を支える時代ではない。医療制度も、介護制度も、地域の暮らし方も変化している。だからこそ、今のたちばな台病院には、創業時の思いをそのまま美談として語るだけではなく、組織として、持続可能な形で受け継いでいくことが求められている。

地域の人が困らないように。
このまちで安心して暮らし続けられるように。
その時代に必要とされる役割を見極め、形を変えながら応えていく。

それは、たちばな台病院が現在目指しているコミュニティホスピタルの姿とも重なる。

コミュニティホスピタルという言葉は、創業当時にはなかった。しかし、地域の人が病気になっても、年を重ねても、住み慣れた場所で安心して過ごせるように支えること。そして、外来・入院・在宅・介護・生活をつなぎ、地域の中で必要とされる役割を果たし続けること。その考え方は、たちばな台病院の原点から決して遠いものではない。

むしろ、今進めている取り組みは、久衛さんが抱いた地域への思いを、幹雄さんが形にし、家族が支え、次の世代へと受け継いできた“地元のため”という原点を、今の時代に合わせてもう一度形にしていくことなのだ。

創業者たちが残したのは、建物としての病院だけではない。
地域の人が困っている時に、どうすれば応えられるかを考え続ける姿勢だった。

たちばな台病院は、これからも地域の資源の一つとして、地元と関わり続けていく。
このまちで安心して生きるために。
三代にわたり受け継がれてきた思いを胸に、時代に合わせて形を変えながら、地域とともに歩み続けていく。